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新選挙法を制定

ムッソリーニは、1923年ファシスト党に有利な新選挙法を制定、1924年にはユーゴスラヴィアと直接交渉でフィウーメを獲得[5]し、ファシズム政権最初の外交的勝利となった。1925年から26年にかけて結社や治安・行政権の集中に関する諸法律を制定、1926年11月にはファシスト党以外のすべての政党の解散を遂行して、ファシスト産業組合を設立して労働組合を統制し、言論の自由をきびしく制限して一党独裁制を確立して、イタリア王室、軍部、財界などの支持を得て独裁体制をととのえた。なお、ファシスト産業組合は1927年、「労働憲章」によってファシスト労働組織として確定された。

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1928年9月には、首相ムッソリーニを議長とするファシズム大評議会(ファシスト党の最高議決機関)を正式に国政の最高機関とし、国家と党の一体化を完成し、強力な統制経済によって経済危機をのりこえようとした。1929年には教皇ピウス11世とラテラノ条約を結び、ローマ教皇庁との和解が成立し、イタリア王国はカトリックを唯一の宗教とすることを認め、ローマ教皇の主権下にヴァチカン市国がイタリアから独立することを承認した。これにより、1870年以来つづいてきた教皇庁とイタリア王国の対立は解消し、ファシスト党はカトリック教徒の支持を確保したこととなる[6]。ムッソリーニは、ローマ教皇庁に対し、小中学校におけるカトリック教育の義務化、聖職者の徴兵の免除、教会の葬祭・婚姻の統制などを認めるなど大幅に譲歩し、これらと引き替えにファシスト独裁体制の威信を高めることに成功した。

ムッソリーニはつとにヴェルサイユ体制の打破を唱えた。また、「古代ローマ帝国の復興」を掲げたが、これは単なる士気向上が主目的であり、現実味の片鱗もない話ではあった。経済危機を打開するために膨張主義政策に着手し、1927年にはアルバニアを保護国とし、1935年10月にはエチオピアへ侵攻した(第二次エチオピア戦争)。しかし、予想以上の苦戦を強いられたイタリア軍は当時でも禁止されていた毒ガス兵器を使用し、そのことを国際連盟で追及されると、イタリアは「エチオピア人は文明人と認められない」という無茶な理論で応えている。なお、1938年、ムッソリーニは人種法を制定している。

経済政策の面では、1922年から1925年にかけてアルベルト・ステファニ(it )が政府のコストを削減し、民間企業をほとんど国有化することなく、一時頻発したストライキをおさえ、景気は回復して失業者も減少し、生産力も増した。治安も改善して、特にマフィアの活動を押さえ込んで犯罪件数を減少させた。所有形態を維持しながら一連の成果を挙げたため、イギリスやアメリカなどの民主主義国家の指導者や評論家のなかにも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える向きがあり、辛口な論評で知られたイギリスのウィンストン・チャーチルさえ「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。しかし、1929年の世界恐慌の影響により失業者が100万人以上に膨れ上がり、次第に財政支出を増やし始め、第二次世界大戦が開戦する1939年までには、イタリアはソビエト連邦に次いで国有企業の多い国となった。1939年3月、議会を廃止して全国組合協同会議にかえ、全体主義の組合国家体制としている。

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2009年04月28日 06:46に投稿されたエントリーのページです。

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